「百人一首 入門の頃」(第662号令和 7年 2月 1日)

百人一首 入門の頃
北立水地区 尾﨑  馨

 
一人っ子だった私は小学校高学年から中学にかけて、いつも正月は尼崎を離れ同い年の従弟をはじめ従兄弟の多い田舎で過ごしていた。その頃(昭和24、5年頃)は娯楽といえる程のものはなく、凧あげや独楽まわしも戸外が余りにも寒い為、すぐにやめてしまい、家の中に入ることが多かった。家の中では大人達が真剣な顔付きで百人一首をやっている。読み札を読み始めるや否や、サッと札をとるその速さにおどろいた。とても子供等の入る余地など無い情景だった。
それではと同い年の従弟を中心にその友達に私も加えてもらって百人一首をする事になった。私は言ってみれば「余所者」だったが、皆は自分の友達として受け入れてくれる心の広さを持っていた。
幸いなことに、大きくなった息子さん達がお正月なので遊びに出かけ、広い座敷で一人炬燵の守りをしている「コウさん」というおばさんが居た。集った我々は男女あわせて十人位いただろうか、そのコウさんに百人一首の手ほどきを受けることになった。
読み札には歌人一人一人が平安時代の装束で描かれ、その人の和歌一首が書いてあり、とり札には平仮名で下の句が書いてある。コウさんが読み札を読み上げ、それを聞いて下の句の札を取るというかるた取りだった。
「みんな、めいめいの十八番の札を出しな。おばさんが分けたげるで。」と皆は二手に分れて源平合戦が始まるのだった。
日本語といっても何しろ八百年以上も昔の言葉、それに和歌独得の言い回し、掛け詞など、そして良い歌なのだろうが、意味の分らない歌に苦戦を強いられた。又、上の句の同じ読みが何枚かあり、下の句でも同じ様な読みがあり、例えば「秋の田のかり穂の庵の歌がるた とりそこなって雪は降りつつ(狂歌)」これがお手付きを起す原因で、結構面白く、皆の知的興味を刺戟したのか夢中になってとり札を凝視していた。
他に何の娯楽もない時代だったからか、正月三ヶ日はおろか四日、五日と夕方から夜更けまで百人一首をしていた。
「山里は冬ぞ淋しさまさりける……」とか
「君がため春の野に出でて若菜つむ……」などの歌は眼前の田舎の風景と重なり、すぐに覚えたものだった。
十二、三歳という何とはなしに男と女を意識し出す年頃で、難解ではあっても恋の歌が数多く出てくる百人一首に、「金色夜叉」の場面ではないにしても、頬を紅潮させてかるた取りに一生懸命だった。
こんな冬休みを何回か送った。「その中に想う人ありかるた取り」という句はその頃中学校の俳句の時間に作ったものだったが、一寸気恥ずかしくて結局発表せずじまいだった。
あの頃百人一首に一生懸命だった皆は今どうしているのだろうか。毎年、正月が来るといつも思うことである。